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血とバラ
「pastel madness」のコメントを書きながら思いついたよしなしごとがありますので、本筋からはちょっとずれてしまうのですけど、少女のイデアを探求する、ランスロットやガウェイン気取りのドン・キホーテ、あるいはほら吹き男爵として書きとめておきたいと思います。ではまず、「pastel madness」に書いたコメントから。


奴股:少女の誕生って、やっぱり浪漫主義と関係あるのかな。

林茉莉:話を日本に限定するけれど、少女という概念そのものに関して言えば、浪漫主義は関係ないと思う。それまで、その年頃の女性は結婚適齢期となった嫁入り前の娘=乙女、すなわち処女でしかなかったわけだけれど、女学校ができて以降、結婚を猶予される娘たち、すなわち少女がうまれてきた。それ自体は社会というか、国家の都合。各々の母親から伝えられてきた妻や母としての心得の質を、国家の要請する良妻賢母としての水準に引き上げることが目的。そうして集められた彼女らの共同体、共同幻想によって育まれたのが少女文化で、そこには浪漫主義も大いに関わっていると言っていいだろう。日本の浪漫主義の代名詞ともいえる『明星』の創刊が明治33年、読者層を少女に絞った初めての少女誌『少女界』の創刊が明治35 年。『明星』のうみだした星菫派の世界が、そのまま少女文化につながっている。知っての通り、星菫派は国家の大事に星よ花よと愚にもつかぬことを弄する腑抜けとして揶揄されたし、少女文化は軽薄そのものとして、決して「文化」として認められることはなかった。あと、『明星』の与謝野晶子といい『少女界』の吉屋信子といい、両者が異口同音に女性の自立を謳ったことにも注目したい。



大正に花開いた乙女浪漫以降、少女の意識にもっとも大きな影響を与えたのは70年代の少女漫画でしょう。そこで大いに参考とされたのが、ラファエル前派や象徴主義だったように思うのですけど、どちらも美術史的にはイロモノ、キワモノ扱いされる傾向にある。とくにラファエル前派は、女性美を霊感の源泉とするという共通意識があり、女性をモティーフにした作品が多いにも関わらず、その背後にある男性画家や作家同士の友愛のほうが匂い立ってくるような気がするんです。たとえばレオノール・フィニは、ラファエル前派を「女性賛美を謳いつつその表層だけを搾取している(ほどきつい言い方をしていたかどうかよく憶えていないんですが)」と批判していたような記憶があります。あれですな、ヌーヴェル・ヴァーグ期に、演技うんぬんよりも思想その他にかぶれていた役者が、制作側から完全に素材として扱われ、憤慨して逆説的に演技にめざめる、というような。少女に置き換えると、わたしはママのお人形じゃないわ! みたいな。話が飛びましたが、自画像やお互いを描いた作品が、件の少女漫画で描かれる美青年像とあまりにもリンクするんですね。妄想から発展して、空想だの幻想だの耽美だのといった世界へどっぷりと浸かるには、やはり自分の似姿である少女を介するよりも、到底シンクロしえない異性であり、中世であり、欧州の霧深い古城でありを扱ったほうがいいのかもしれない。たとえばハーレクイン・ロマンスの突拍子もない設定なども、そうしたありえなさが、逆にその世界へ浸りきるための道具立てとなるからだという話を聞いたこともあるし。いわゆる70年代の少女漫画が徐々にSFやファンタジーものへ移行していったのも、そういうことじゃないかと思います。そういえば、ゴシック少女にとってもっとも魅力的な設定は吸血鬼もの(イギリスには、わざわざ吸血鬼顔に整形する女の子もいるほど)だとされていますよね。アン・ライスのレスタトものをみれば一目瞭然だけれど、吸血鬼譚の伝道師である須永朝彦さんが、そもそも美少年・美青年好きが嵩じて吸血鬼ものにはまった旨を告白されているわけでして、『ポーの一族』はうまれるべくしてうまれきた作品なのであるなぁという思いを新たにするわけです。なんだかブログの趣旨から脱線した上、さらに論旨も一貫しない取りとめのない文章になってしまいましたが・・・。

                                        林茉莉

vampirelovers2.jpg
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テーマ:腐女子的思考 - ジャンル:サブカル

【2008/11/09 14:01 】
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林茉莉;ブログ界の河合その子
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クラブでかけられるネタ曲は、定番や大ネタを除くと、たいていがごく最近の曲であるか、もしくは話題になってから10年ほど経過して、誰もが忘れかけている「あ、それいいよね」とか「じつはそれっていいよね」的な曲である。楽曲の知名度も視野に入れつつ、どの程度「忘れられていた」かを計算し、いいタイミングでフロアへ投げ込めるDJは、<センスがいい>とか<嗅覚が鋭い>と言ってもらえたりする。
だが、少女(幻想)に関するコンテンツを書いている身として、ごく最近のものを取り上げるのは、「センスがいい」とか「嗅覚が鋭い」ことにはならないようだ。なぜなら、それらは即座に「大きなお友だち」というありがたくない隠語を連想させるからで、しかも性癖的に後ろ指を差される危険性をも孕んでいる。すなわち、いい歳をしたおとなの男が、少女性を<語る>のに、『ふたりはプリキュア』だの『オシャレ魔女 ラブandベリー』だの『ベリーズ工房』だのを取り上げるのは、いささかリスキーな行為なのである。
こういう記事を書いていて思うのは、けっきょくわたしたちは、「少女のありよう」を気にするよりも、自分たちが幼かった頃に定義されていた「乙女チック」への想いを愛でているのだなぁ、ということ。それは、かつて『ときめきメモリアル』の大ヒットした要因が、じつは「疑似恋愛」でなく、「学園生活の追体験」にあった事実とよく似ている。
さらにわたしたちは、男としてこの世に生を受けたわけで、ゆえに「どうして女の子はズボンをはいてもいいのに、男の子はスカートをはけないのだろう」と思ってしまった種族だったりするのだ。けれどそれは、性同一性障害と呼べるようなものではなく、もともとは、ただ隣の芝生が青く見えてしまっただけなのだと思う。
というのも、その頃の男の子には、とにかく「昇りつめねばならぬ」射精型自己実現社会への参加が課せられていたり(少年漫画では力のインフレが横溢していた)、ロックを聴くにしても、バンドメンバーへの黄色い声などは御法度で、そのルーツだの奏法だのメッセージ性だのを、訳知り顔で語らねばならないような空気に支配されていた。そして、それができない男は「女々しい」落伍者だったわけだ。いや、わたしたちは、それへの参加をハナから拒否していたわけだが。おそらくそういった感性は、「身近な男性」、すなわち男親への嫌悪感から培われていったのだと思う。
すなわち、わたしたちは<男であること>を拒否したのではなく、<男たること>を拒否したのだ。だから、わたしは「生きる上で役に立たない知識」を山ほど抱えた男性型オタクでもあるけれど、それより「買い物が大好きな完全消費型」の、蘊蓄よりもまずはカップリングな腐女子型オタクであることを愉しみたい。
                         林茉莉
【2005/10/03 05:55 】
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